愛から慈悲へ

愛から慈悲へ

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三匹の蝶が愛の話をしていた。一匹は、「私は愛の炎を見た。」といった。二匹めは、「私の羽は、 愛の炎に傷ついた。」といった。三匹めは、なにも言わないで、火に飛び込んで、燃えてしまった。最後の蝶だけが本当に愛を知ってい た。
<アラブの伝説>

この世で最 も大きい力は愛の力である。人間と社会全体のあらゆる進歩の源であるからである。憎しみ、貪欲、偏見によって、自己に閉じこもるエゴ イスムから抜け出て、世の中をより広くより深く理解し、人々のために尽くすことができるようになる。
つ かむ、殴るなどとこぶしを固めると、自分では、強くなったように思うかもしれないが、生命とのつながりが絶たれてしまう。手を開いて 与えることから愛が生 まれる。報いを待たずに、恩知らずの人であろうと信じて与えると、いつか、心の大きい人たちと出会い、ともに歩むことが出来るように なる。一人ではなにも 出来ない。世の中がよく分かるとは言えない。友情で結ばれ、尊敬しあった人々が集まって、共通の目的に向かって進めば、様々な見地か ら考察することが出来 るから、目的に到達することが出来る。この視野の広さが成功の基である。
愛は、心を 開き智恵を目覚めさせる。子供は、好きな先生の学科がよく出来るようになることが多い、子供の心が、知らず知らずのうちに、先生の考 え方と一体になっているからである。
愛 は、世の中を肯定的に広く見るから、他の人々を、暖かく迎えて、守ってあげたいと思う友人のように大切にする。こうした心が内にある と、他の人々からも愛 されるようになる。名前を呼んでやさしく話しかけられれば、自分もやさしく親切にしてあげたいと思うのは当然のことであろう。
愛は、ま た、人の小さな過ちを笑顔で受け入れられ、そっと直してあげようと思う。相手を大切に思えば、自分の過ちを認めて詫びることも容易に できる。自分の欠点にもかかわらず、人は自分を認めていてくれる、本当に自分のことを思っていてくれると思うと、心がやすらぐる。
会社で、上 に立つ者が、部下を大切にすれば、彼らも慕って会社を愛し、一緒に成功に向かって働くことが出来る。同様に、グループはみんなが仲良 く、夫婦は互いの愛情が保てる。

慈悲

慈 悲は、一生を通して深めることができ、少しずつ世界中に広がる愛の進行する形である。愛は、まず、幸せな、あるいは幸せであろう努め る家庭に生まれる。家 庭生活では、子供を育てるために多くの献身と犠牲を必要とする。来る世代を愛することを学ぶ厳しい学校である。そして、この愛が人類 全体に広がる慈悲とな る。感謝、喜び、思いやりとなって、周りの人々に分け与える慈悲となる。すべての人々を尊重し、苦しみから救おうと願う。さらに、瞑 想をして、空の修行を すると、慈悲は、形を超えて普遍的な愛となって、宇宙全体のみならず、次元の違う世界にまで広がる。
仏 教では、慈悲は悟りに達する根本で、すべてに幸せと幸せになる因果を与えたいと願うことである。毎日となえる5大願で、「すべての衆 生を救い、6波羅蜜多 の実践を行い、すべての仏の教えを学び、すべての仏に仕え、悟りを開く、すべての衆生が同じように悟りに達する、」ことを願う。
慈 悲は、大人の愛である、自己中心ではない。宇宙を大きな家族のようにみなして、他との相違を尊重しつつ、自分も全体のために貢献した いと思う。自分だけが 正しいとか真実を知っているとか思わない、他の人々の見地から世の中を見るのも面白いと、好奇心を持つ、連帯感が生まれる。
型 にはまった宗教観に惑わされない、表面は違っても、様々な宗教が目指す目的は同じであることを知る。仏教は、対立のない隔てない愛の 智慧によって、すべて に、神や仏を見ることを教える。慈悲はすべての生き物に広げられる。すべてが大日如来の現れであるから、動物、植物、すべてが尊ばれ ねばならない。人間の 野蛮な行為から守られねばならない。
慈悲は、善 行、思いやり、祈り,瞑想などを 積み重ねることによって大きくすることができる。心が清らかになると、自然はそれを感じるから、恐れることはなくなる。キリスト教の 聖者、アッシジのサン、フランソワ聖人は、動物たちと話をし、一匹の狼が,どこへ行く にもついて来てきたと伝えられている。また、インドの修行者達の中には、猫のように、虎を追い払ったり、毒蛇を家畜のように扱ってい た人がいたという。
一生の間に は,善い人ばか りでなく悪い人にもで会うが、それも慈悲を大きくすることを学ぶためと思えばよい。敵意に対して、自分がどんな反応をするか,本当の 慈悲心を持ったかを自省しよう。

誰の心も同じ、つな がっている。

パ リ大学の医学部を卒業する際、(医学の父とみなされているギリシャ人,紀元前450年)ヒポクラットに誓いを立てる。主意は、すべ ての病人は医者の治療 を受ける権利があり、その秘密は守られねばならないという。有名な言葉に、「君が誰か、思想は何か、仕事は何かではなく、どこが痛い かを聞いているの だ。」というのがある。
あ る日、パリのカルチエ、ラタンの教会で祈っていた時、急に大きな悲しみ、絶望感を感じた。そんな時、私はよくするように、教会の周り を歩いて、どこから来 るかを探した。道端に座って物乞いをしている女がいた。友達の肩を抱くように、大きな犬を抱いて話している。彼女に大丈夫かと声をか けると、首を振って、 医者に見てもらってきたところだという。医者は親切に無料で見てくれたが、薬を買うお金がないので困っているという。5分後には薬を 手にして喜ぶ彼女に、 お礼には私のために祈ってくださいといって別れた。時々は神様のことを思うであろうと期待したからであった。私の直感からか、あるい は、この教会の目に見 えない愛の心が知らせてくれたかしらないが、確かなことは、我々は、心と心でみんながつながっているということである。
人間や動物 などの生き物の苦しみを救うことは、幾世もの間、数え切れない動物や人間の生を受けてきた過去世の借金を今払うようなもの、積み重 なった業のために、閉ざされていた心の花びらは、こうしたよい行いによって開いていく。
「物音は善 をしない、善は音を出さない。」というが、社会には人に知られず善行をする人は多くいる。
死 期の近い病人の介護をする人たちは、この仕事によって、学ばされることが多いという。人生で、何が一番大切かを知らされるという。祈 ることを知っている人 たちは、内に輝きを持っている。次の世に生まれる人たちを助ける渡し舟の船頭さんである。我々は、ほんの僅かの間しかこの世にいない ということを忘れない ようにしよう。

動物達の慈悲

人 間だけでなく、動物も慈悲心があることは、進化した生物であることの証拠である。他の苦しみを見て、同情し救いたいと思う心を持って いる。仏教の教えで は、我々も因業によって動物に生まれ変わることもあると思うと、動物にも親切にしたくなるのは当然である。飼い主を慕ったり、時には 命を救ったなどの話は よく聞く。
動 物にも、愛憎の感情があると、獣医は語る。五匹の子猫に乳を飲ませている雌猫の隣の部屋に、空腹で弱弱しく鳴いている生まれたばかり の捨て猫を置いた。泣 き声を聞いた雌猫は、心配そうに自分の子猫たちを注意深く見ながら数えた。そして、周りを眺めて、隣の部屋まで行き、子猫を見ると匂 いをかいだのち、自分 の子供達のところへ戻ったが、落ち着かない様子であった。また鳴き声が聞えると、子猫のところは行った。迷ったように二度行き来を繰 り返した後、ついに、 口にくわえてつれていき、自分の子供たちと一緒に乳を飲ませたという。
象も非常に 進化した動物で、弱いものをかばって集団生活をする。イルカ、犬、馬、他にも多くの動物が自分達の子供の世話をするのを見ると、人間 と同じである。
人間だけが 愛情を持つと思い上がり、動物を感情も慈悲もないと決めてかかって軽視するのはよくないことである。

形を超えた普遍の慈悲

教えでは、 仏道の修行者には,自分のためにだけ修行する者、自分のためと同時に人のためにする者、他のためにだけ修行する者とがあり、三番目の 修行者が最高で、自我を消滅するまでに行き着くという。

現 世の願い、企業の成功とか、良縁などを祈るもよい、しかし、それは仮の幸せしかもたらさない。自分のための祈りは、因業、生まれ変わ る輪廻から解放させて はくれない。この世での功徳が尽きると、また古い因業から生まれ変わらねばならない。悟りのための修行は、現実のこの世と自我への執 着を捨てさせる智慧を 求める。小乗経では、「私は捉われない,退ける、すべての欲望と世の中の概念を捨てる。」という。こうして、自我から解放されること をめざす。
解放とは、 自分のものは何もない状態を言う。僧侶が修行で回向するのはこのためで、功徳は無限に大きくなる。
悟りを開く ために、次のようなたとえがある。「心が太洋のように広く大きくなりたかったら、自分の小さな器だけの修行にとどまるな、器を壊して しまえ。」
頭 で考えるだけでは人間の本能的部分を変えることは出来ない。空の瞑想を続けると、自身の奥深くまでいたることが出来る。不動明王のよ うな憤怒佛の真言をと なえて、底に潜在する自我を変えることも出来る。自我は幻に過ぎない、執着することはない。目的を持たず、利益も求めず、ただ空を瞑 想する、様々な思いが 浮き上がってくるが、あとを追わず、何も考えずに瞑想し続けると、全てが自然に消えていく。心は澄み切った水のようになる。広い、輝 く太洋のような、喜び に満ちた大きい慈悲を見る。そのうちに、それを見ている我そのものも消える。

慈悲を養うための実践法

1)懺悔す る。
自 分の欠点に気がつかず、自分ではなく、周りや世の中が悪いと思っている人が多い。ところが、よく考えるといつも同じような問題に突き 当たることに気がつ く。そこで、自分の欠点を認めて過去の過ちを反省すると、奥深く潜む因果が分かってくる。反省しない人は自尊心からいつでも自分の行 いを正当化して済ま す。たとえば、盗みを、社会の不公平のせいにする。しかし、本当の原因は貧しさによる劣等感が深く隠されているからである、これは祈 りで変えることが出来 る。
我々 は,過去世から多くの誤った考え方や悪い習慣を持ってきているから、心から懺悔をして、なおして、清められるように祈る。時には心が 動揺させられることも ある。当面する困難の本当の責任は自分にあることを悟って、深く反省すると全てが消えるが、誘惑はいつでも来るから用心せねばならな い。
過去世で盗 人であったある僧は、店でふたの開いていた茶壷に手を入れて盗もうとしたが、その瞬間、誘惑に気がついて、「店に泥棒がいます。」と 大声で叫んだ。

2)捨て去 る
こ とわざに言う、「自由を求めれば欲望の奴隷になる、規律を求めれば自由を得る。」自分の内面性を成長させるための時間とエネルギーを 確保するには、無用 な、限りない欲望を生み出す消費社会に操られないことである。物を持てば持つほど、心が落ち着かず、満足感が得られない。人間にとっ て何より必要なことは 暖かい家庭生活である、心が安らぎ物事を気にしなくなる。
捨ててし まって、世の物事に無関心になると、精神面を深める自由が得られる、師の指導の下で修行の道を歩むことが出来る。
自我を木に たとえると、この世の物事への執着が枝であり、幹が自分自身への執着である。自己への執着、幹を切れば、枝は問題でなくなる。だか ら、まず宗教者は自分を捨て、この世は夢のようなはかない幻でしかないとみる。
このはかな い人生を少しでも意義あるものにするのは、愛を与えることである。普通、人は愛する者にはお金や品物を与える、死の直前に愛の言葉を 言う。前には恥ずかしくていえなかったのであろうか。

3)実践、 修行
昔 の僧侶達は、今よりずっと厳しい生活をしていた。断食をしたり、厳しい修行をし、不動明王の真言をとなえること百億という湛海和尚の ように、真言を繰り返 しとなえた。仏に帰依し、聖なる音、真言をとなえると、菩薩の光の世界とつながることが出来る。仏の慈悲から、その光が我々の心に降 りてきて清められる。
インドで は、実際に真言の効果が現れるためには、音の数を10万倍繰り替えしてとなえねばならないと言い伝えられている。したがって、10音 からなる真言の場合100万遍繰り返さねばならない。
自宅に、祈 る場所と仏壇を設けることが必要である。菓子、果物、お茶、水などお供えをする、お線香やローソクをつけることを忘れてはならない.仏様たちに 壇に降りてきて、慈悲をもってこれらのお供えを受領されるように祈る。自分自身を象徴してささげ、救いを願うのである。
祈り、瞑想 するは、自分で特技を生み出そうというのではないし,行の威力を見せびらかしたり、得意になるのでもない。仏に、うちに隠された恐怖 や煩悩から解放されることを祈るのである。すると、利他の思いが目覚め、自然に行動に現れる。

4)同情心
我々 が当面する問題は、他の人々も一生の間に出会う問題と同じである。餓えに苦しんだことのある人は、食べ物を乞う人に無関心ではいられ ないであろう。慈悲を 大きくするには、自分もある程度の苦しみの体験するとよい、さもないと、人が絶望しきっているのを見てもうるさく思うだけかもしれな い。人間の苦しみの主 な原因は孤独感である。誰からも見捨てられたと思い込み、自殺する若者、年少者もいる。親切な一言とか優しい笑顔が救いとなる、お金 のかからない良薬であ る。
誰 にも、笑顔で優しい言葉をかけよう。驚いた相手は、用心するかもしれないが、たいていの人は、感じのいい人だと、心の中であなたに小 さい光を送るから、つ もり重れば、あなたのほうが受けたものが多い。自分の持ち物全部が他の人々の働きによっていることを思えば、感謝せずにはいられな い。感謝の心が、他の 人々との連帯感を強め、宇宙の力につながる。また、両親,師、友人達と愛し愛されることによって、暖かく包まれた我々の心は大きくな り世界に広がる慈悲と なる。悟りに近ずく。私の師僧は、「自分が生きるのではない、他によって生かされているのだ。」といつもいわれていた。

5) 施し
与 えれば授けられる、愛すれば愛される、他のために尽くしていると、自分を忘れる。計算ずくでなく報いを求めず善行をしよう。教えは 知っていても、奥深く積 もった本能の惰性でエゴイストの振る舞いをする、見ないふりをして通り過ぎることがよくある。日常の行いに、人のためになること心が けていると少しずつ清 められ変わっていく、自分の心が喜びに満ち明るくなることが分かる。施しは眼に見える物事を与えたりこの世での行為ですることもある が、眼に見えない次元 においてもできる。また、祈りで、遠く離れた多くの苦しむ人々を救い守ることが出来る。自分の家から一歩も外に出ることなしに、悩む 人々にすばらしい贈り 物をすることが出来る。
死 んだ後、地獄から助けられた男の話がある。生前につんだ善行や、祈りや修行、学んだ知識のおかげではなく、ある寒い日に、子猫を懐に 入れて暖めた功徳に よって助けられたという。人のためになること、救おうとする実際の行為のすべては自分自身にすると同じで報われる。心に喜びをもたら し、かけがえのない人 生体験となる。

6)自然界 の生命に接する
我々 は、自然の命と一体であることを忘れている。頭ばかりで現実を忘れるまでになった。残酷なビデオゲームの影響で、学校で子供が仲間を 殺すことさえ起きてい る。パソコンの前で多くの時間を過ごすと、理論だけで縮小されたモデルを現実と間違えるようになる。森は木片がかたまって並べられた だけのものではない。 自然を無視して平気で破壊するようになったのも、その結果である。いたるところにある生命を尊重することなしには、人間の心の安定は えられない。人類の未 来はない。全体の発展のために、強いものが勝つではなく、つながり助け合い、一人がみんなのため、みんなは一人のためが本当の世の生 き方である。人間の貪 欲が自然のハーモニーを破壊している

環境保護を 主張する詩人、ピエール、ラビの一文を紹介する
「学校で、 他は恐ろしい敵、一番にならないと人生はだめだと子供に信じ込ませる競争を緊急にやめねばならない。多くの子供は不安な心をくだらな い物を集めて紛らしたり、暴力を振るうことで他を負かそうとする。
今 日では、5歳の子供がパソコンのマウスを操ったり、間違いなく数を数えると、親達は得意になる。見事だ。しかし、あまりにも多くの子 供が、内の心をないが しろにして、抽象化することを覚えるから、真の天性、適した職業を見つけることが出来ないままにいる。私が若かったころは、現実を感 覚で感じ取っていた。 自分を知るには、まず、自分の身体を知る、聞く、食べる、見ることから始める。そして、感情や欲望を知る。知識人たちが手先の仕事し ないのは誠に残念なこ とである。我々の手はすばらしい道具である。.家を建て る、ピアノを弾く、優しく愛撫する。子供達にこの春を贈ろう。この世を味わい、どんな人生を送りたいか、心に耳を傾ける。子供達に、 自然とは何か、大地の仕事、季節を贈ろう。人間の智慧にとって,
太古からの 宇宙の智慧ほどすばらしい学校はない。ごく小さな植物にも、その多様さ、複雑さに現されているのは生命の智慧である。」

7)思考を コントロールする
愛 する人を思うと、心が明るく暖かく軽くなり、嫌いな人を思うと、心が暗く重く冷たくなるを感じたことは誰にもあると思う。普段心に抱 く思いは、機械を動か す燃料と同じように、人間を動かしているが、長い間には顔や肉体にあとを残す。意地悪できついことを考える人、不満足、嫉妬の思いで 自分に閉じこもりがち な人などは、自らの不幸を招いている。我々は思いによって心が明るく広がり、体にも現れるから幸せな一生を送ることができる。穏やか に安らいだ心は仏の光 を受け入れることができる。まず、心が開けると、感情などの精神的動きが清められる。真言をとなえ続けると、怒りや官能的本能の宿る 腹部に作用する。ここ が静まり,常に好意を持って対することが出来るようになると、足の部分のエネルギーが開く、周りを明るく照らし、内には深い洞察力が 目覚める。
日 常生活でのコントロールには、たとえば、怒りは深くゆっくりと呼吸する、圧力を抜くように深呼吸を繰り返す。悲しみは心の中の感情を 大地に排出するように 体を動かすがよい。恨みをもったり自分に閉じこもるのが避けられる。自然の生命とのふれあい、森や木々や花に、心の均衡を取り戻すと ストレスにならない。
何より肝心 なことは、思い考えることは、我々の世を見る主観的な見方に過ぎない、頭の中で作ったものであって、現実ではないと知ることである。 すると、自分で意識して心の持ち方を変えることが出来る。

8)自分の 意志も捨てる。
宗教の世界 は実に神秘である。外から見て、孤独に暮らしているように見える僧でも、すべての行動を誤りなく的確に導く、ある種の力(仏)と常に 一緒にいるから、直感のままにすることがすべて効果的である。
イ ンド人ランダスは絶えず祈りをし続けた修行者であった。彼は巡礼日記の中で、何も持たず、すべてを神に任せて放浪する修行者として, いかに生きたかを語っ ている。どこの寺に行っても、直感で神様がこうせよ、ああせよといわれた、時には神様の気が変わったというままに素直に従った。彼の 遍路は、普通の人とは ちょっとかわっていたが、毎日が不思議な出会いで、食べることにも寝る場にも事欠かなかったという。
日本でも、 四国88箇所の巡拝をすると、様々な出会いや、夢に導かれることがある。時には病が不思議に快癒することも聞く。
自 分の知恵や意志を捨てて、直感で仏の導きに従うは、すべての宗教で言われている向上の第一歩である。理屈だけで考える人には難しいか もしれないが、信仰心 があれば、全てがよいときに、必要なときに現れることを知っているから、それについていくだけでよい。頑なにならなくてもいい、何も 期待しなければ、失望 や不平不満は生まれない。人類への慈愛だけを心にもとう。

不動明王の慈悲

時 によると、やさしさより厳しく正しい態度が必要とされる。利害関係の相対する人々、様々な意図を持った人々が寄ってくる実業界や政治 の場での人間関係は感 情的、友達付き合いではやってゆけない。このような世界では、慈悲は弱みとみなされやすい。不動明王の厳しさで心を固め、誰からも非 難の余地のない、的確 で効果的な行動が取れるようにする。
子 供のわがままをきくばかりの親はよい親とはいえない、あとで後悔するであろう。過ちはそのままにしておくと、後に重大なことを起こし うる危険がある。直ち に正すべきである。たとえば、仏様の前のような神聖な場で、タバコをすい、人が拝んでいようと平気で雑談をすることが習慣になる、さ らに度を越す行動も平 気になって行き着くところがない。悪い習慣を正すことは、時がたつほど難しくなる。
病院で仕事 を間違える人は、病人にとっては、無責任な犯罪人である。慈悲だからとそのままにしてはおけない。
真実を厳し く言われると、自分を乗り越え成長するチャンスになる。厳しさの刺激で、智慧と勇気、力を人々に尽くすことにむけさせる。これが慈悲 である。

慈悲と福島原発事故 

一国の政治 は、実に多くの制約を同時に考慮しなくてはならないから容易ではない。石油や鉱石のような自然資源の乏しい日本は、すべてを海外との 輸出入に頼らねばならない。日本の富は、国民の生産能力にある。
政 府が,放射線濃度が最も高い東北地方の農民達を絶望させたくないことはよく分かる。今回の事故に何の責任もない彼らではあるが、10 年、20年後に、ある いはもっと早く、いたるところで癌が発病するであろうことを知っていても、汚染した生産物を日本中や海外に売り続けているのを、放置 している。
こ れは犯罪である。まず、子供達にとって、成長する身体は細胞増殖が著しく、放射線が身体の各部につきやすいから、汚染した食べ物を食 べると内部被爆で大き な被害を受ける。慈悲をもって、農民や子供達、国民全体を守るべきではないか。経済面ばかりから現在の問題を考えていると、日本の将 来が危ぶまれる。も し、身体の病が体力や意志力を衰えさせ、頭脳の細胞が破壊されることになると、一体、誰が工場で働けるであろうか?。技師達は海外に 輸出できるような生産 技術を発明できるであろうか?誰が健全な子供を生むであろうか?
放 射線の害はすぐには現れない。チェルノビル事件から25年たった今も、フランスだけではなくヨーロッパ全体で皮膚癌や甲状腺の癌が増 えている。福島の原子 炉では、今も空中に放射線が出て空気や水を汚染し続けているので、放射能物質は日本中だけでなく、太平洋に広まっている。日本の海岸 線は汚染され、アメリ カの太平洋側の海岸でも観測されている。汚染が消えるまで、セシウムは300年、プルトニウムは何千年と非常に長い年月がかかるの で、しまいには地球全体 が汚染されてしまう危険がある。日本だけのではない、世界問題である。爆発事故の10日後には、ヨード放射線がパリの上空に来てい た。
日本は、世 界中の国に援助を頼み、破壊された原子炉を包み込む巨大な石棺を作って、放射線が広まり続けるのを防ぐべきである。
地 震国日本で、原子力エネルギーを作れないのは明瞭な事実である。直ちに廃止すべきである。福島の事故の2年前にあった新潟の地震で、 原子燃料の入った炉が 破壊され燃料棒が落ちたが、幸いなことに重大事にはならなかった。その時、なぜよく考えて、今回はまったく幸運であったが、またある かもしれないと、原子 炉を止めさせなかったのであろうか?技術者の意見は財界で軽視される。国際間の契約にもとずいた国の大きな投資企業を放棄することは 不可能と言われるかも しれないが、惨事は予期されることであった。
東 京にオリンピックを招いて、希望を持たせたいという政府の意図は分かる。「大丈夫だ、前と同じように日本は世界の大国のひとつだ。」 といって、現実を否定 するが、残酷な目覚めが待っている。東京の水や空気は汚染されている。水は北方の水源から流れてくる。路上を歩けば、放射能を含んだ 空気を吸うので、肺か ら体中に入る。世界中から若い選手を呼んで、被爆の危険にさらすのは、人道上親切ではない。
東大の児玉 教授、 京大の小出助教授のような道義心の高い勇気ある科学者達や他にも多くの人達が、原子力による危険の真実を訴えられている。フ ランスでも、クリアラド原子力研究所のブリュノ、シャレイロンが、25年前からこの運動を続け
ている。イ ンターネットでこの方々の講演を聴くことが出来る。国民各自が身を守り、政府が正しい判断と決議をするように働きかけるようにと、正 確な情報を提供する努力が続けられている。いつかは、彼らの大きな慈悲心と道義心が認められ、報いられることを願う。
私 の一番の願いは、汚染されていない食べ物を子供たちが食べられるように良心的にみんなが注意をすること、重大な問題である。国内に散 らばった放射能は百年 以上たっても変わらないであろうから、東北で暮らすことは危険である。住民を出来るだけ南のほうに移動させられるように、若い世代の ために、工業や文化の 新しい中心地を作り仕事を提供するようにしてほしいと願ってやまない。

「愛と慈悲 は人類に欠かせないものである。贅沢品ではない。愛と慈悲がないと人類は滅亡する。」

ダライラマの言葉より

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