フランス光明院 融快 (融仙訳)
三匹の蝶が愛の話をしていた。一匹は、「私は愛の炎を見た。」といった。二匹めは、「私の羽は、愛の炎に傷ついた。」といった。三匹めは、なにも言わないで、火に飛び込んで、燃えてしまった。最後の蝶だけが本当に愛を知っていた。
<アラブの伝説>
愛
この世で最も大きい力は愛の力である。人間と社会全体のあらゆる進歩の源であるからである。憎しみ、貪欲、偏見によって、自己に閉じこもるエゴイスムから抜け出て、世の中をより広くより深く理解し、人々のために尽くすことができるようになる。
つ かむ、殴るなどとこぶしを固めると、自分では、強くなったように思うかもしれないが、生命とのつながりが絶たれてしまう。手を開いて与えることから愛が生 まれる。報いを待たずに、恩知らずの人も信じ、与えると、そのうちに自分も心の大きい人たちと出会い、ともに歩むことが出来るようになる。一人ではなにも 出来ない。世の中がよく分かるとは言えない。友情で結ばれ、尊敬しあった人々が集まって、共通の目的に向かって進めば、様々な見地から考察することが出来 るから、目的に到達することが出来る。この視野の広さが成功の基である。
愛は、心を開き智恵を目覚めさせる。子供は、好きな先生の学科がよく出来るようになることが多い、子供の心が、知らず知らずのうちに、先生の考え方と一体になっているからである。
愛 は、世の中を広く肯定的に見るから、他の人々を、暖かく迎えて、守ってあげたいと思う友人のように大切にする。こうした心が内にあると、他の人々からも愛 されるようになる。名前を呼んでやさしく話しかけられれば、自分もやさしく親切にしてあげたいと思うのは当然のことであろう。
愛は、また、人の小さな過ちを笑顔で受け入れ、そっと直してあげようと思う。相手を大切に思えば、自分の過ちを認めて詫びることも容易にできる。自分の欠点にもかかわらず、人は自分を認めていてくれる、本当に自分のことを思っていてくれると思うと、心に安らぎを得る。
会社で、上に立つ者が、部下を大切にすれば、彼らも慕って会社を愛し、一緒に成功に向かって働くことが出来る。同様に、グループはみんなが仲良く、夫婦は互いの愛情が保てる。
慈悲
慈悲は、一生を通して深めることができ,少 しずつ世界中に広がる愛の進行する形である。愛は、まず、幸せな、あるいは幸せであろう努める家庭に生まれる。家庭生活では、子供を育てるために多くの献 身と犠牲を必要とする。来る世代を愛することを学ぶ厳しい学校である。そして、この愛が人類全体に広がる慈悲となる。感謝、喜び、思いやりとなって、周り の人々に分け与える慈悲となる。すべての人々を尊重し、苦しみから救おうと願う。さらに、瞑想をして、空の修行をすると、慈悲は、形を超えて普遍的な愛と なって、宇宙全体のみならず、次元の違う世界にまで広がる。
仏 教では、慈悲は悟りにいたる根本である。すべてに幸せと幸せになる因果を与えたいと願う。毎日となえる5大願では、「すべての衆生を救い、6波羅蜜多の実 践を行い、すべての仏の教えを学び、すべての仏に仕え、悟りを開く、すべての衆生が同じように悟りに達する、」ことを願う。
慈 悲は、大人の愛である、自己中心ではない。宇宙を大きな家族のようにみなして、他との相違を尊重しつつ、自分も全体のために貢献したいと思う。自分だけが 正しいとか真実を知っているとか思わない、他の人々の見地から世の中を見るのも面白いと、好奇心を持つ、連帯感が生まれる。
型 にはまった宗教観に惑わされない、表面は違っても、様々な宗教が目指す目的は同じであることを知る。仏教は、対立のない隔てない愛の智慧によって、すべて に、神や仏を見ることを教える。慈悲はすべての生き物に広げられる。すべてが大日如来の現れであるから、動物、植物、すべてが尊ばれねばならない。人間の 野蛮な行為から守られねばならない。
慈悲は、善行、思いやり、祈り,瞑想などを積み重ねることによって大きくすることができる。心が清らかになると、自然はそれを感じるから、恐れることはなくなる。キリスト教の、アッシジのサン、フランソワ聖者は、動物たちと話をし、一匹の狼が,どこへ行くにもついて来てきたと伝えられている。また、インドの修行者達の中には、猫のように、虎を追い払ったり、毒蛇を家畜のように扱っていた人がいたという。
一生の間には,善い人ばかりでなく悪い人にもで会うが、それも慈悲を大きくすることを学ぶためと思えばよい。敵意に対して、自分がどんな反応をするか,本当の慈悲心を持ったかを自省しよう。
誰の心も同じ、つながっている。
パリ大学の医学部を卒業する際、(医学の父とみなされているギリシャ人,ヒポクラット―紀元前450年)に誓いを立てる。主意は、すべての病人は医者の治療を受ける権利があり、医者はその秘密は守らねばならないという。有名な言葉に、「君が誰か、思想は何か、仕事は何かではなく、どこが痛いかを聞いているのだ。」というのがある。
あ る日、パリのカルチエ、ラタンの教会で祈っていた時、急に大きな悲しみ、絶望感を感じた。そんな時、私はよくするように、教会の周りを歩いて、どこから来 るかを探した。道端に座って物乞いをしている女がいた。友達の肩を抱くように、大きな犬を抱いて話している。彼女に大丈夫かと声をかけると、首を振って、 医者に見てもらってきたところだという。医者は親切に無料で見てくれたが、薬を買うお金がないので困っているという。5分後には薬を手にして喜ぶ彼女に、 お礼には私のために祈ってくださいといって別れた。時々は神様のことを思うであろうと期待したからであった。私の直感からか、あるいは、この教会の目に見 えない愛の心が知らせてくれたかしらないが、確かなことは、我々は、心と心でみんながつながっているということである。
人間や動物などの生き物の苦しみを救うことは,過去世の借金を今払うようなもの、我々は、幾世もの間に、数え切れない動物や人間の生を受けてきた。積み重なった業のために、閉ざされていた心の花びらは、こうしたよい行いによって開いていく。
「物音は善をしない、善は音を出さない。」というが、人に知られず善行をする人は多くいる。
死 期の近い病人の介護をする人たちは、この仕事によって、学ばされることが多いという。人生で、何が一番大切かを知らされるという。祈ることを知っている人 たちは、内に輝きを持っている。次の世に生まれる人たちを助ける渡し舟の船頭さんである。我々は、ほんの僅かの間しかこの世にいないということを忘れない ようにしよう。
動物達の慈悲
人 間だけでなく、動物も慈悲心があることは、進化した生物であることの証拠である。他の苦しみを見て、同情し救いたいと思う心を持っている。仏教の教えから 見ると、我々も因業によって動物に生まれ変わることもあると思うと、動物にも親切にしたくなるのは当然である。飼い主を慕ったり、時には命を救ったなどの 話はよく聞く。
動 物にも、愛憎の感情があると、獣医は語る。五匹の子猫に乳を飲ませている雌猫の隣の部屋に、空腹で弱弱しく鳴いている生まれたばかりの捨て猫を置いた。泣 き声を聞いた雌猫は、心配そうに自分の子猫たちを注意深く見ながら数えた。そして、周りを眺めて、隣の部屋まで行き、子猫を見ると匂いをかいだのち、自分 の子供達のところへ戻ったが、落ち着かない様子であった。また鳴き声が聞えると、子猫のところは行った。迷ったように二度行き来を繰り返した後、ついに、 口にくわえてつれていき、自分の子供たちと一緒に乳を飲ませたという。
象も非常に進化した動物で、弱いものをかばって集団生活をする。イルカ、犬、馬、他にも多くの動物が自分達の子供の世話をするのを見ると、人間と同じである。
人間だけが愛情を持つと思い上がり、動物を感情も慈悲もないと決めてかかって軽視するのはよくないことである。
形を超えた普遍の慈悲
教えでは、仏道の修行者には,自分のためにだけ修行する者、自分のためと同時に人のためにする者、他のためにだけ修行する者とがあり、三番目の修行者が最高で、自我を消滅するまでに行き着くという。
現 実の願い、企業の成功とか、良縁などを祈るもよい、しかし、それは仮の幸せしかもたらさない。自分のための祈りは、因業、生まれ変わる輪廻から解放させて はくれない。この世での功徳が尽きると、また古い因業により生まれ変わらねばならない。悟りのための修行は、現実のこの世と自我への執着を捨てさせる智慧 を求める。小乗経では、「私は捉われない,退ける、すべての欲望と世の概念を捨てる。」という。こうして、自我から解放されることをめざす。
解放とは、自分のものは何もない状態を言う。僧侶が修行で回向するのはこのためで、功徳は無限に大きくなる。
悟りを開くために、次のようなたとえがある。「心が太洋のように広く大きくなりたかったら、自分の小さな器だけの修行にとどまるな、器を壊してしまえ。」
頭 で考えるだけでは人間の本能的部分を変えることは出来ない。空の瞑想を続けると、自身の奥深くまでいたることが出来る。不動明王のような憤怒佛の真言をと なえて、底に潜在する自我を変えることも出来る。自我は幻に過ぎない、執着することはない。目的を持たず、利益も求めず、ただ空を瞑想する、様々な思いが 浮き上がってくるが、あとを追わず、何も考えずに瞑想し続けると、全てが自然に消えていく。心は澄み切った水のようになる。広い、輝く太洋のような、喜び に満ちた大きい慈悲を見る。そのうちに、それを見ている我そのものも消える。
慈悲を養うための実践法
1)懺悔する。
自 分の欠点に気がつかず、自分ではなく、周りや世の中が悪いと思っている人が多い。ところが、よく考えるといつも同じような問題に突き当たることに気がつ く。そこで、自分の欠点を認めて過去の過ちを反省すると、奥深く潜む因果が分かってくる。反省しない人は自尊心からいつでも自分の行いを正当化して済ま す。たとえば、盗みを、社会の不公平のせいにする。しかし、本当の原因は貧しさによる劣等感が深く隠されているからである、これは祈りで変えることが出来 る。
我々 は,過去世から多くの誤った考え方や悪い習慣を持ってきているから、心から懺悔をして、なおして、清められるように祈る。時には動揺させられることもあ る。当面する困難の本当の責任は自分にあることを悟って、深く反省すると全てが消えるが、誘惑はいつでも来るから用心せねばならない。
過去世で盗人であったある僧は、店でふたの開いていた茶壷に手を入れて盗もうとしたが、その瞬間、誘惑に気がついて、「店に泥棒がいます。」と大声で叫んだ。
2)捨て去る
こ とわざに言う、「自由を求めれば欲望の奴隷になる、規律を求めれば自由を得る。」自分の内面性を成長させるための時間とエネルギーを確保するには、無用 な、限りない欲望を生み出す消費社会に操られないことである。物を持てば持つほど、心が落ち着かず、満足感が得られない。人間にとって何より必要なことは 暖かい家庭生活である。心が安らぎ物事を気にしなくなる。
捨ててしまって、世の物事に無関心になると、精神面を深める自由が得られる、師の指導の下で修行の道を歩むことが出来る。
自我を木にたとえると、この世の物事への執着が枝であり、幹が自分自身への執着である。自己への執着、幹を切れば、枝は問題でなくなる。だから、まず宗教者は自分を捨て、この世は夢のようなはかない幻でしかないとみる。
このはかない人生を少しでも意義あるものにするのは、愛を与えることである。普通、人は愛する者にはお金や品物を与える、死の直前に愛の言葉を言う。その前ま
は恥ずかしくていえなかったのであろうか。
3)実践、修行
昔 の僧侶達は、今よりずっと厳しい生活をしていた。断食をしたり、厳しい修行をし、不動明王の真言をとなえること百億という湛海和尚のように、真言を繰り返 しとなえた。仏に帰依し、聖なる音、真言をとなえると、菩薩の光の世界とつながることが出来る。仏の慈悲から、その光が我々の心に降りてきて清められる。
インドでは、実際に真言の効果が現れるためには、音の数を10万倍繰り替えしてとなえねばならないと言い伝えられている。したがって、10音からなる真言の場合100万遍繰り返さねばならない。
自宅に、祈る場所と仏壇を設けることが必要である。菓子、果物 お茶、水などお供えをする、お線香やローソクをつけることを忘れてはならない。仏様たちに壇に降りてきて、慈悲をもってこれらのお供えを受領されるように祈る。自分自身を象徴してささげ、救いを願うのである。
祈り、瞑想するは、自分で特技を生み出そうというのではないし,行の威力を見せびらかしたり、得意になるのでもない。仏が、我々のうちに隠された恐怖や煩悩から解放するのである。すると、利他の思いが目覚め、自然に行動に現れる。
4)同情心
我々 が当面する問題は、他の人々が出会う問題と同じである。餓えに苦しんだことのある人は、食べ物を乞う人に無関心ではいられないであろう。慈悲を大きくする には、自分もある程度の苦しみの体験するとよい、さもないと、人が絶望しきっているのを見てもうるさく思うだけかもしれない。人間の苦しみの主な原因は孤 独感である。誰からも見捨てられたと思い込み、自殺する若者、年少者もいる。親切な一言とか優しい笑顔が救いとなる、お金のかからない良薬である。
誰 にも、笑顔で優しい言葉をかけよう。驚いた相手は、用心するかもしれないが、たいていの人は、感じのいい人だと、心の中であなたに小さい光を送るから、つ もり重れば、あなたのほうが受けたものが多い。自分の持ち物全部が他の人々の働きによっていることを思えば、感謝せずにはいられない。感謝の心が、他の 人々との連帯感を強め、宇宙の力につながる。また、両親,師、友人達と愛し愛されることによって、暖かく包まれた我々の心は大きくなり世界に広がる慈悲と なる。悟りに近ずく。私の師僧は、「自分が生きるのではない、他によって生かされているのだ。」といつもいわれていた。
5)施し
与 えれば授けられる、愛すれば愛される、他のために尽くしていると、自分を忘れる。計算ずくでなく報いを求めず善行をしよう。教えは知っていても、奥深く積 もった本能の惰性でエゴイストの振る舞いをする、見ないふりをして通り過ぎることがよくある。日常の行いに、人のためになること心がけていると少しずつ清 められ変わっていく。自分の心が喜びに満ち明るくなることが分かる。また、祈りで、多くの苦しむ人々を救い守ることが出来る。自分のうちから一歩も外に出 ることなしに、悩む人々にすばらしい贈り物をすることが出来る。
6)自然界の生命に接する
我々 は、自然の命と一体であることを忘れている。頭ばかりで現実を忘れるまでになった。残酷なビデオゲームの影響で、学校で子供が仲間を殺すことさえ起きてい る。パソコンの前で多くの時間を過ごすと、理論だけで縮小されたモデルを現実と間違えるようになる。森は木片がかたまって並べられただけのものではない。 自然を無視して平気で破壊するようになったのも、その結果である。いたるところにある生命を尊重することなしには、人間の心の中の安定はえられない。
詩人で、環境保護を主張する、ピエール、ラビの一文を紹介する。
「学校で、他は恐ろしい敵、一番にならないと人生はだめだと子供に信じ込ませる競争を緊急にやめねばならない。多くの子供は不安な心をくだらない物を集めて紛らしたり、暴力を振るうことで他を負かそうとする。
今 日では、5歳の子供がパソコンのマウスを操ったり、間違いなく数を数えると、親達は得意になる。見事だ。しかし、あまりにも多くの子供が、内の心をないが しろにして、抽象化することを覚えるから、真の天性、適した職業を見つけることが出来ないままにいる。私が若かったころは、現実を感覚で感じ取っていた。 自分を知るには、まず、自分の身体を知る、聞く、食べる、見ることから始める。そして、感情や欲望を知る。知識人たちが手先の仕事しないのは誠に残念なこ とである。我々の
手はすばらしい道具である。.家を建てる、ピアノを弾く、優しく愛撫する。子供達にこの春を贈ろう。この世を味わい、どんな人生を送りたいか、心に耳を傾ける。子供達に、自然とは何か、大地の仕事、季節を贈ろう。人間の智慧にとって,
太古からの宇宙の智慧ほどすばらしい学校はない。ごく小さな植物にも、その多様さ、複雑さに現されているのは生命の智慧である。」
7)思考をコントロールする
愛 する人を思うと、心が明るく暖かく軽くなり、嫌いな人を思うと、心が暗く重く冷たくなるを感じたことは誰にもあると思う。普段心に抱く思いは、機械を動か す燃料と同じで、人間を動かしているが、長い間にはそれが、顔や肉体にあとを残す。意地悪できついことを考える人、不満足、嫉妬で自分に閉じこもりがちな 人などは、自らの不幸を招いている。我々の思いによって心が明るく広がる、体にも現れるから幸せな一生を送ることができる。穏やかに安らいだ心は仏の光を 受け入れることができる。まず、心が開けると、感情などの精神的動きが清められる。真言をとなえ続けると、怒りや官能的本能の宿る腹部に作用する。ここが 静まり,常に好意を持って対することが出来るようになると、足の部分のエネルギーが開く、周りを明るく照らし、内には深い洞察力が目覚める。
日 常生活でのコントロールには、たとえば、怒りは深くゆっくりと呼吸する、圧力を抜くように深呼吸を繰り返す。悲しみは心の中の感情を大地に排出するように 体を動かすがよい。恨みをもったり自分に閉じこもるのが避けられる。自然の生命とのふれあい、森や木々や花に、心の均衡を取り戻しストレスにもたえられ る。
何より肝心なことは、我々が思い考えることは世を見る主観的な見方に過ぎない、頭が創造したものであって、現実ではないと知ることである。すると、自分で意識して変わることが出来る。
8)自分の意志も捨てる。
宗教の世界は実に神秘である。外から見て、孤独に暮らしているように見える僧でも、すべての行動を正しく導く、ある種の力(仏)と常に一緒にいるから、直感のままにすることがすべて効果的である。
インド人ランダスは絶えず祈りをし続けた修行者であった。巡礼日記の中で、何も持たず、すべてを神に任せて放浪する修行者として、いかに生きたかを語っている。
どこへ行っても、神様がこうせよ、ああせよといわれたと直感のままに、時には、神様の気が変わったと素直に従った。彼の遍路は、普通の人とはちょっと変わっていたが、毎日が不思議な出会いで、食べるものにも寝る場にも事欠くことがなかったという。
日本でも、四国八十八箇所の巡拝をすると、様々な出会いや夢に導かれることがある、時には、不思議な病の快癒した話も聞く。
自 分の意思や知恵を捨てて、直感のままに仏の導きに従うことは、どの宗教でも教えられている向上の第一歩である。理屈で頭で考える人には難しいかもしれない が,信仰心があれば、全てがよいとき必要なときに与えられることを知って、導きのままに従えばよい。頑なにならなくてもよい。何も期待しなければ、不平不 満は生まれない、失望されることもない。人類への慈愛だけを心に持とう。
不動明王の慈悲
時 によると、やさしさより厳しく正しい態度が必要とされる。利害関係の相対する人々、様々な意図を持った人々が寄ってくる実業界や政治の場での人間関係は感 情的、友達付き合いではやってゆけない。このような世界では、慈悲は弱みとみなされやすい。不動明王の厳しさで心を固め、誰からも非難されることなく、的 確で効果的な行動が取れるようにする。
子 供のわがままをきくばかりの親はよい親とはいえない、あとで後悔するであろう。過ちはそのままにしておくと、後に重大なことを起こしうる危険がある。直ち に正すべきである。たとえば、仏様の前のような神聖な場で、タバコをすい、人が拝んでいようと平気で雑談をすることが習慣になる、さらに度を越す行動も平 気になって行き着くところがない。悪い習慣を正すことは、時がたつほど難しくなる。
病院で仕事を間違える人は、病人にとっては、無責任、罪人である。慈悲だからとそのままにしてはおけない。
真実を厳しく言われると、自分を乗り越え成長するチャンスになる。厳しさの刺激で、智慧と勇気、力を人々に尽くすことにむけさせる。これが慈悲である。
慈悲と福島原発事故
一国の政治は、実に多くの制約を同時に考慮しなくてはならないから容易ではない。石油や鉱石のような自然資源の乏しい日本は、すべてを海外との輸出入に頼らねばならない。日本の富は、国民の生産能力にある。
政府が,放射線濃度が最も高い東北地方の農民達を絶望させたくないことはよく分かる。今回の事故に何の責任もない彼らではあるが、10年、20年後に、あるい
はもっと早く、いたるところで癌が発病するであろうことを知っていても、汚染した生産物を日本中や海外に売り続けているのを、放置している。
こ れは罪である。まず、子供達にとって、成長する身体は細胞増殖が著しく、放射線が身体の各部につきやすいから、汚染した食べ物を食べると大きな被害を受け る。慈悲をもって、農民や子供達、国民全体を守るべきではないか。経済面ばかりから現在の問題を考えていると、日本の将来が危ぶまれる。もし、身体の病が 体力や意
志力を衰えさせ、頭脳の細胞が破壊されることになると、一体、誰が工場で働くであろう。技師達は海外に輸出できるような生産技術を発明できるであろうか。誰が健全な子供を生むであろうか。
放 射線の害はすぐには現れない。チェルノビル事件から25年たった今も、フランスだけではなくヨーロッパ全体で皮膚癌や甲状腺の癌が増えている。福島の原子 炉では、今も空中に放射線が出て空気や水を汚染し続けているので、放射能物質は日本中だけでなく、太平洋に広まっている。日本の海岸線は汚染され、アメリ カの太平洋側の海岸でも観測されている。汚染が消えるまで、セシウムは300年、プルトニウムは何千年と非常に長い年月がかかるので、しまいには地球全体 が汚染され
てしまう危険がある。日本だけのではない、世界問題である。爆発事故の10日後には、ヨード放射線がパリの上空に来ていた。
日本は、世界中の国に援助を頼み、破壊された原子炉を包み込む巨大な石棺を作って、放射線が広まり続けるのを防ぐべきである。
地震国日本で、原子力エネルギーを作れないのは明瞭な事実である。直ちに廃止すべきである。福島の事故の2年前にあった新潟の地震で、原子燃料の入った炉が破壊されたが、幸いなことに大事にはならなかった。その時、なぜよく考えて
今回はまったくのチャンスであったが、またあるかもしれないと、原子炉を止めなかったのであろうか。技術者の意見は財界で軽視される。国際間の契約にもとずい た国の大きな投資企業を放棄することは不可能であろう、惨事は予期されることであった。
東 京にオリンピックを招いて、希望を持たせたいという政府の意図は分かる。「大丈夫だ、前と同じように日本は世界の大国のひとつだ。」といって、現実を否定 するが、残酷な目覚めが待っている。東京の水や空気は汚染されている。水は北方の水源から流れてくる。路上を歩けば、放射能を含んだ空気を吸うので、肺か ら体中に入る。世界中から若い選手を呼んで、汚染の危険にさらすのは親切ではない。
東大の児玉教授、 京大の小出助教授のような道義心の高い勇気ある科学者達や他にも多くの人達が、原子力による危険の真実を訴えられている。フランスでも、クリアラド原子力研究所のブリュノ、シャレイロンが、25年前からこの運動を続け
ている。インターネットでこの方々の講演を聴くことが出来る。国民各自が身を守り、政府が正しい判断と決議をするように働きかけるようにと、正確な情報を提供する努力が続けられている。いつかは、彼らの大きな慈悲心と道義心が認められ、報いられることを願っている。
私 の一番の願いは、汚染されていない食べ物を子供たちが食べられるようにみんなが良心的に注意をすること、重大な問題である。国内に散らばった放射能は百年 以上たっても変わらないであろうから、東北で暮らすことは危険である。住民を出来るだけ南のほうに移動させられるように、若い世代のために、工業や文化の 新しい中心地を作り仕事を提供するようにしてほしいと願ってやまない。
「愛と慈悲は人類に欠かせないものである。贅沢品ではない。愛と慈悲がないと人類は滅亡する。」 ダライラマの言葉より Yukai Senseï
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